about

【自己紹介】※あんまり真面目に読まないでねww 
3歳からヤマハのオルガン・ピアノ教室経て、現在も音楽関連・周辺の活動を行っている。
担当楽器は決めていない。愛知県岡崎市出身。1968年生まれ。申年。岡崎市民病院。
父方の祖父は自営業を経て、東レの設備関連技師。愛媛、神戸、を経て愛知県岡崎市矢作地区へ。
母方の祖父は製麺業。
父は教員、母はスポーツインストラクター、兄は金融投資系。
去る2016/3/15に父が亡くなりました。 
遺言は「プロのミュージシャンにだけはなるな!」。


■学歴
あけぼの保育園/聖マリア幼稚園/三島小学校/竜海中学校/岡崎高校普通科/横浜市立大学経済学部卒


■職歴
TOA株式会社/オフィス Jプランニング(音楽制作・音響エンジニア)/島村楽器/オフィス・るーく(音楽制作・音響エンジニア)


■現在
現在は某地方ケーブルテレビ局(放送・通信関連企業)の広報課長。
地域情報とエンタメ総合の告知広報活動を行っています。

音楽活動を中心に活動していた時期に、活動の必要性から音響関連を担当。
エンジニアリングを習得。その後そのまま音響会社に就職。
いわゆる音楽のエンターテイメントの枠組みの外にある空間演出・設備設計などの業務を行う。
企画職へ移動後、広報関連の業務に従事。

企画サイドではなく、再び現場へと考え離職。
離職後、個人の活動時期を経て楽器店へ勤務。
楽器店時代は音響を学んだ視点から音楽への支援を直接演奏者へしながら、楽器を販売していたが、
楽器への愛よりも音楽への傾倒が著しくなることで違和感を禁じえず離職。

地元へ戻り、ご縁から放送事業関連会社へ就職。
就職後、本人の希望とは別に突然インターネット事業を兼務することとなった。
その関連でネットワーク技術を追いかけ学ぶことに。
かなり有意義な時期であった。

音楽的観点や音響的観点(楽器・シンセサイザー・シーケンサー)及び建設業的設備の設計業務の経験から、
かなり天職に近い業務だと勘違いも含め邁進。ネットワーク技術との親和性を事業拡大の業務を総合的に行う。
いつの間にかそもそも希望した放送業務からは離れることとなる。

その後も、インターネットの革命的時代を乗り切るためにその必要から技術面を学び、広報活動も従事。
当時は人的リソースの不足が総合的な業務を行わざるを得なかった背景がある。
おそらく同じ業界はからに同じ。

放送と通信の融合が大きく目標として掲げられる中、事業部は解体吸収となり、業務の広報的支援を軸に技術職ではなく、営業職へ転属。
ある意味フィールドワークへ復帰。

この時点でやっと地域の音楽活動という立ち位置で人前での演奏活動を再開するに至る。

その他、活動範囲は創作系で範囲を決めていない。
脚本家・作曲家・作詞家・声優・イベント司会など。


【活動の歴史】


■小学生・中学生時代
小学3年の時に、ピアノ教師「大石恵」と出会い、作曲方法に偏った教育を受ける。
変わった師であった。
その後中学、高校と師事を仰いでいる。大石先生は普通のピアノ教師で特に有名ではない。
最初の作品は小学校4年生の時の学級歌。
当時は「男のくせにピアノを弾いてやがる~www」とイジメに合う。
が、岡崎ラグビースクールに所属しており、華麗なステップとタックルでいじめを回避。
また、イジメに合わない楽器は何?と真剣に考え、トランペットを吹くことにしたらしい小心者でもある。
つまり、音楽と体育だけは誰にも負けない「つもり」の典型的なキャラであった。

大きな影響を与えたのはラジオ番組・テレビ番組。
小学生の頃は、何を言っているのかわからない短波ラジオFENを主に聞いていた。
FM放送は中学時代にサントリー・サウンドマーケットや現在も続いている長寿番組ジェットストリームなど。
夜中になるとAMのオールナイトニッポンに切り替えたりするエアチェック世代。
テレビ放送では「どんぐり音楽会」「あなたのメロディー」「題名のない音楽会」など。
当時1日30分以上のテレビ視聴を父の強い教育方針で認められていなかった。
が、これらの番組は30分の枠外扱いとして自由に見ることができた。
中学から高校の頃には、NHKの趣味講座 ベストサウンドを欠かさずに見ていた。
講師 – 難波弘之、アシスタント – 中村あゆみを身近に感じていた。

国際的にショパン関連で有名な演奏家、河合優子女史が当時の近所のお姉ちゃん。
目標でもあったらしい。彼女は実兄の同級生。
ピアノを弾く=学校業界でいういわゆるPマークの付く生徒として、音楽の授業その他でピアノ伴奏をするいわゆる「伴奏屋」をこの頃からしていた。


■高校生時代
家庭の事情で一旦大学への進学を諦め、音楽業界での活動を決意、高校在学中であったが勝手に上京。
が、未成年であったため、当然地元に強制送還される。
移動中に「グリコ事件」の容疑者と間違えられ、大騒ぎとなるなど思い出深い。


■大学生時代
その後、大学へ進学。
進学理由は国内でも珍しい、「学費が安い」大学であった、というのが主な理由。
軽音楽部SESSIONに入部する。
入学当時、研究会であった。入部直後に先輩達の積極的な活動で、大学公認の文化部連合所属の軽音楽部となった。
後に大学文化部連合の委員となる。

この部は後に、某有名イベント会社、某音楽専門チャンネル運営、音響機器メーカー責任者、某有名子供向け番組のプロデューサー、大学講師、等を輩出している。
平井堅などアーチストもこの部に所属。
当時は珍しい、横浜市4大学合同学生企業集団「ベイサイドフューチャー」(顧問:ミッキー吉野氏)を部の創出メンバーである先輩たちが立ち上げ、今日もプロフェッショナルとして音楽業界で個々活動されている。
背景として、第一次バンドブームの時代、イカ天が流行っていた時代であった。
一番好きなバンドは「チョコパフェ」(神大所属)だった。

また、大学生活とは関連なく、都内ライブハウスなど主に関東ブロックでボーカリスト・ドラマーとして定期演奏活動を行っていた。
後の音楽活動全般の基盤となっている。

また、MIDI講師、カラオケデータ制作納品、イベント音響などの請負業務を精力的に行う。
いわゆる打ち込み・多重録音の創世の時代であった。
主な活動として、横浜みなとみらい博’91・六本木ライブハウスなどでのバンドイベント、国際音楽イベントの照明音響連動のマニュピレータ等。
演奏家としてよりも作曲家としての活動が多く、著作権譲渡納品の為、クレジットはない。

大きな転機として、20才の時に某ヴォーカルオーディションにチャレンジ。
そのころ既に音楽活動で収入を得ていたこともあり、仕事として演奏を行っていたが、メジャーへの近道を企てる。
厳正なる審査の結果、事前打ち合わせでグランプリの獲得を知らされる。
がしかし、説明を受けたメジャーデビューの際の制限事項に辟易する。
自由な活動の妨げとなることを嫌い辞退。
「若気の至り」と後日話している。


■卒業後

大学卒業後、楽器・音響関連企業に就職。
その道のプロフェッショナルとして生業しながら、演奏家活動を継続。
就職するも、「学生時代の音楽活動の時の方が手取りの給料が多かったという事実に社会人になってから愕然としている。」
しかしながら、本当の意味での学びはこの時期。作曲活動も継続。

音楽活動としてはオルガン、ピアノ、シンセなどの鍵盤楽器をメインに活動する方向にシフト。
打ち込み・楽曲作成及び楽曲提供・ジングル提供や、建築物件に対するイメージ環境音楽作品などの提供など。

バンド活動はそのままDRUMS担当など。
VOCAL担当のバンドではGuitarを惹きながら歌うか、もしくは弾かずに首からぶら下げていた。
担当楽器を決めきれない優柔不断な性格であるが、
コンポーザーとしては多様な楽器を理解することが役に立っている。
2014年末からはあえて「ギタリスト」と名乗り、ギター演奏を行う機会を増やしている。


1998年、諸事情で出身の岡崎市へ帰京。
現職に就業。
引越しと共に合わせる音楽仲間が周りに不在となり、新たに求める時間的体力的余裕がない中、作曲活動は継続。
また地域のイベントなどでのピアノ伴奏などでの参加など、無理のない範囲での活動を継続。
2000年に一旦区切りの作品【ありがとう 2000】(原題)をインディーズRELEASE。 販売元 オフィス・るーく

https://wp.me/p77PrN-5i


2006年からしばらく、地元FM曲のラジオドラマで声優ボランティア・脚本ボランティア・楽曲提供ボランティアを行う。
その絡みの周辺イベントへの審査員・トレーナ・伴奏参加など。


2011年9月24日に、仕事の絡みで増尾好秋氏(JAZZギタリスト)に出会う。

増尾好秋さんと|2012年9月24日
増尾好秋さんと|2012年9月24日

WithArtists 2011-09-24 増尾好秋さん


個別に話す機会があり、「自分の音楽をすればいいんだ!」との助言を頂く。
増尾氏自身もプレイヤーとしての自己再生をしていく過程であった様子。
一旦音楽活動をやめようとしていた時期であり、大きな影響を受けている。(後述)

2012年、小中の同級生で地元商店街の友人からリーマンショック以降の不況対策で何かイベントを立ち上げられないか
相談を受ける。当初は断り気味だったが彼の熱意にほだされ、模索し、会社へも相談。

本業である会社の支援を受けつつ、各種イベント企画、審査員、出演、企画に携わる。
業務としても地域貢献という形でイベントの支援・広報さどを行うことに。
個人的に支援を可能とする対象が「音楽系」だけであったので、音楽イベントを中心に小売りや学校関係者の
PRなどが可能な活動を組み立てる結果となった。

この活動は、【REVIVE PROJECT】として、自社及び商工会議所他会社団体・音楽関係諸団体・FM・事務局
ボランティア関係者などの協賛を得つつ、実施に至る。
http://artistclip.com/revive/
2012年5月に第一回ひがおかREVIVEを実施。

第一回ひがおかREVIVE 中日新聞2012年5月12日
第一回ひがおかREVIVE 中日新聞2012年5月12日

以降、約2年ほど継続するも、事務局への負担が大きすぎることからボランティアでの継続は難しくなる。
その後、プロジェクトとしては個人負担で可能なイベントにREVIVEの名前を冠する形式とした。
事務局は解散はせず。次回以降の活動は未定。
現状では景気回復とともに商店街も潤い、他の音楽系イベントなどの活動も顕著となり、その役割を終えている。
現段階で最終のイベントは2014年6月14日の【Sushi-Revive】in 蛇の目鮨。

2014年12月ToshiYanagi氏に会い、

Toshi Yanagiさんと|2014年12月20日
Toshi Yanagiさんと|2014年12月20日

直後にその師匠Steve Lukatherに会う。
with Steve Lukather(TOTO)|2015年01月28日
with Steve Lukather(TOTO)|2015年01月28日

同時にさらにその師匠Larry Carltpnに会う。
with Larry Carlton(Guitar)|2015.01.28
with Larry Carlton(Guitar)|2015.01.28

このことをきっかけに、ギタリストになることを目標に、2015年11月29日のLIVEイベントで一度も名乗ったことがない
ギタリスト宣言をし、今に至る。

「音楽は趣味だろうとプロだろうとやめれないモノはやめれない。なら楽しもう!」と本人談。

個人的には、クイエイトからエンタメの末端、当事者・演者であり続ける事が重要だと考えている
一気通貫型の思想の持ち主。 「わからないものはわかるようにする」
ただし、会社からの厳命として、あらゆる誤解を招くことを回避するため、イベントなどの当日は「休日」であることを前提としていた。
(イベント後援、準備など、支援的要素は一部業務範囲として認めて頂く場合もある。)
まとめると、ただの音楽好きなおっさん。

2019年2月25日にSteve Lukather氏の所属するTOTOが名古屋へ。
その際のサウンドチェックで一緒に演奏を行う。
その様子をYOUTUBEで視聴できる。TOTOファンの層の厚さから視聴が多い。

■再生リスト

TOTO - HOLD THE LINE - Sound Check -with Jun Nakaguchi -Another Angle ver
TOTO – HOLD THE LINE – Sound Check -with Jun Nakaguchi -Another Angle ver
Steve Lukather With me
Steve Lukather With me

TOPレベルのアーチストへのあこがれは強い。実際にあってその空気を感じたい、と思っている音楽ファンです。